本当に買えないものは時間

(蓮田SAにて)
数十年後、癌が一般療法で治療できる時代がくるらしい。100年前…肺炎や結核が不治の病であったように、医療技術の発達によって人々の驚異は少しづつ克服されていった。
過去にこんなことがあったよね?
という話はその話をした時点で想像の中でしか再現できなくなる。今から訪れるのは未来だけであり、その未来を選択するのはその過去である「今」だけだ。
時の流れは普遍的であり、どの力をもってでしても逆らうことはできない。特殊相対性理論においても物質が未来に(ワープではなく重力の違いによる時間の相違)いくことはできても過去にいくことはできない。
命はお金で買えない。
確かに正解だ。
だがとんでもなく莫大な資産を使えば、自らの細胞を培養して皮膚や臓器を交換することが可能になるかもしれない。脳を機械に移植すればサイボーグとして存在し続けることができるかもしれない。当然だが今の技術では実現しない。
例え実現できたとしても人の命に制限がないと地球は人で溢れてしまう。だから種の保存や進化を考えれば寿命が必要になる。しかしながらこれらの空想物語をあたかも現実に起こりうるように言えるのは少しばかりの可能性があるからだろう。
一方で時の流れに関しては普遍的で一方通行。つまり議論の余地がない。
ここで冒頭の7:2:1に話を戻そう。これは私の1日における体力の配分を表している。
- 7→通勤で消費される体力
- 2→労働で消費される体力
- 1→自由消費
7(通勤で消費される体力)
私は23区某所より埼玉の端っこに通っているので片道2時間半、往復5時間が通勤にかかる。世間はコロナで騒がれているのに電車の中は寿司詰め状態。シートに座ると降りたい駅で降りられないくらいの混雑さを想像してほしい。
これを毎日続けていると体力の回復が追いつかない現象が発生する。家に着くのは22時過ぎ、そして朝起きるのは4時半だ。まともに考えれば5時間の通勤時間は愚行であるし、これから仕事を選ぶ人には職場の近さを最優先で考えることを推奨する。
だけど長い通勤にはひとつだけメリットがある。それは雑学が増えること。1日5時間、どうでもいいことを検索して調べる日々を15年間続けたとしよう。そうすると何かを質問されても大体答えられるような知識が無駄に身についてくる。
知識と知識を結びつければ未来想定も可能になり、今後あれこれはこんな感じで進んでいくよね…的な発想ができるようになる。プライベートでも文章を書く機会が多い都合上、この雑学知識は大いに役立っている。
2(労働で消費される体力)
体力の7割を通勤で削られるので、残された2割を労働にまわしている。この2割の体力で最大限を発揮できるように特殊な訓練を受けている(大嘘)。
1(自由消費)
いわゆるバックアップ。残された1割をどちらかに配分する。モバイルバッテリーをイメージしてもらえば良いだろう。100%の残量のうち70%を通勤に、20%を労働に、残り10%を消費の激しいどちらかに供給する。こんな感じ。
一度歩いた景色は想い出のフォルダに分類されていく
時間は一方通行。何が起きても時間だけは取り戻すことができない。
今は未来に進むだけで過去に自分を取り残すことはできない。いつも過去に向き合うのは現実ではなく記憶の世界でのみだ。
大人が子供を見て懐かしがるのは頭のどこかで哀愁を感じているからだろう。二度と戻れないあの経験に価値があるのだと。
残念ながら地球上のすべてのものは平等に歳を取っていく(標高の違いなどによる軽微な変化は除く)。
だけどどう生き、どう最期を迎えるのかは個人の自由であり最大の権利でもある。
私の通勤5時間は明らかに無駄ではあるし、当然ベストな選択であるとは思っていない。ただ結果論で言えば続いているので、何をどうしてベストであるのかを判断することはできない。
みんなはどうなんだろう?
日々の生活に疑問をもっていたりするのだろうか?




コメント